「ちぎる」の起点

あいさつ

みなさま、こんにちは。秋山智哉と申します。
1993年生まれの27歳、映像クリエイターとして普段は映像制作をしています。

さてこのたび第24回文化庁メディア芸術祭プラットフォーム部門ジオ・コスモスカテゴリーにおきまして、「ちぎる」の映像作品演出を応募し、本作は選考の結果、賞をいただきました。

これまであまり映像コンペや賞に応募することはなかった自分が、このような国内外から様々な作品が集まるこの賞で受賞できたこと。それも毎年受賞展を見に行っていた文化庁メディア芸術祭という舞台で賞を受賞できたことは、月並みではありますが本当に夢のようだと思っております。

本作は9、10月に東京・お台場の日本科学未来館で行われる受賞作品展にて展示されます。
是非、みなさまの眼前にちぎり絵×ストップモーション×球体映像という、今までに見たこと無い映像の景色をご覧いただけるよう、引き続き作品の制作・ブラッシュアップを進めていきます。
ワクチンの接種も始まりましたが、新型コロナウイルスの感染拡大が落ち着き、今年の秋にはみなさまが安心して映像を見に行けるような世の中になっていることを願います。

さて今回の受賞に際し、この作品を発想する際に至った考え方を知っていただく、そして自分の整理のためにもテキストに残して公開することにしました。
お時間ございましたら、ぜひお付き合いください。

「ちぎる」の起点

「ちぎる」という作品を決定づけているのは“ちぎり絵”を“ストップモーション”でアニメにするというアイデアです。ここから連想的に「“千切る”と“契る”」「格差と分断」「一枚の絵が破け散り、それからちぎり絵の地球が組み上がる」というアイデアが積み上がりました。

ちぎり絵はあらゆる絵の描画技法の中で言えば、多くの人に知られている表現技法の一つです。
表現技法と呼ぶことがもはや大げさかもしれません。色紙をちぎって自身の描きたい形にペタペタと貼っていくだけの単純な手法です。全員が全員とは言いませんが、必ず一度は目で見たこと、あるいは実際に手を動かしてみたことがあるのではないでしょうか。
また私自身は世代ではないのでピンときませんが、ある一定の世代には「裸の大将」といえばすぐに理解できるようです。また仮に知らなくても一目見れば、それが紙で作られているものであり、ちぎって作られたものなのだという想像が容易です。子どもから高齢の方まで多くの人が分かる表現ではないでしょうか。

またストップモーションを用いて「繋がった紙でできた地球が破けて千切れる、でもその千切られた紙片たちがもう一度地球の形を描きだす」というストーリーとビジュアルを考えました。ストップモーションと言うと難しいかもしれませんが、コマ撮りアニメ、パラパラ漫画と同じように何枚も絵を用意して連続でその絵を切り替えるとアニメーションになるという方法です。
これによって私なりのやり方で現在の世の中の姿、そして未来への願いを映し出しました。

しかし、私はもともとそれまで3DCGをメインに触ってきた人間です。ちぎり絵とは正直なところ、この作品と出会うまで強い縁があったわけではありません。

ではそんな自分が、なぜちぎり絵にたどり着いたのか。

それは“分断”を取り上げるにあたり、この作品を分け隔てなく全員に伝えたかったからです。

「難しい」がある場所

アートには多種多様な表現があり、その表現方法にもまた様々な種類があります。
メディアアートというジャンルで言えば、プログラミングを使って何かのデータを取得・処理して視覚化したり、AR/VRという表現で現実にないものを生み出すことで表現することが出来ます。

今はATOM-BOXとして活動していますが、まだ都内の映像会社で働いていた時、科学館や子ども向けの施設に展示する映像やプログラムを作っていました。
その時感じたのは、デジタルなコンテンツに多くの人はまず分からないという印象を抱くということです。そして人は分からないものには近寄らないし、ましてややってみようなどとは思わない。
だから目で見て何をやっているのかが分かることは、非常に重要なことです。

分かりやすいものはアートではないのかもしれません。
よく男子便所・女子便所を案内するトイレのマークが分かりにくいという話題をネットでは目にします。そのときに「情報を正確に間違いなく伝えるのがデザイン、自らの意思や問いを表現するのがアート」などといったワードを見ます。それはその通りだと思います。

でも勘違いしてはいけないのが、アートも必ず自らの意思や問いを見る人に伝えなければならないということです。「アートが難しい」というのは、表現を受け取ることに難しさがあるべきではなく、受け取る側がその受け取った表現をどう解釈するかところに難しさがあるべきなのです。

アートは学校で受けるテストと似ている部分があります。
アートには決まった答えがないのに対して、テストは必ず決まった答えがあるという点で決定的に異なるものではあるのですが、発表する側とそれを受ける側がいるという点、それからなにか受け手に考えさせるという意味では似ています。それを例えにしましょう。

テストを受ける時、私たちは問題文を読んで、何を答えればいいかわかるように書いてあるから答えを書くことができます。
もしもこれが問題文として破綻しているとか、炙り出ししないと問題文が出てこないとか、そもそも問題文がどこに書いてあるのかわからないだと、それを解く人は回答ができません。

例えば「関ケ原の西軍の大将は誰?」という問題で「えっと、なんだけなぁ~…」と頭をウンウン唸らせるのは良いのです。「徳川家康だっけ」と間違えてしまっても良い。これは「石田三成」を必ず答えさせるためのデザインではないから。
だけどこれが「関ケ原の西軍は誰?」だと、何を言いたいのかがわからない。分からなければ当然何を答えていいかも分かりません。

回答を考えて難しいのは良い、回答を考えた結果、違う答えが出るのも構わない。だけど、回答者が何をしていいかわからなくなるものは、そのあり方を見直さなければならないのです。

アートはシンプルであるべき、という話とはまた少し違うかと思います。もちろんシンプルは良いことです。シンプルにできるのなら、見る人に分かっていただくためにそれはすべきことです。
でもそんなシンプルに出来るほど、アートで問う課題や発する意見が簡単ではないことも事実です。ましてやそれを視覚化するわけですから、入り組んだ表現になったり、なにかハードやソフトに依存したりすることもあると思います。結果的にシンプルではなくなってしまったのならば、その表現はその形しかないのでしょう。

ただそうなったときに、「きちんと伝えたい内容が伝わるか」は一度考えるべきだと思います。難しいことを難しいまま伝えるのは簡単、難しいものを簡単に伝えることは難しいとはどこかで読んだ言葉です。自分の作品に難しいままになっている部分はないか、簡単にできる部分はあるか。そうして自分の表現を見直したときに、簡単にできる要素を見つけたとします。しかし簡単にするためには“手間”がつきものです。時間がかかるとか、知識がいるとか、機材がいるとか。様々な形で手間という壁が現れると思います。
しかし、その手間は絶対に手を動かして解決すべきです。むしろ手間があることが分かったのなら、その作品は絶対良いものになるのです。むしろ手間という壁が高ければ高いほど、その壁の向こう側には良い作品の姿が待っています。

そしてその手間が、私にとってはちぎり絵だったのです。

終わりに

私にとって“ちぎり絵×ストップモーション”はまだスタート地点を出発したばかりです。これからさらに様々な表現や場所で、この表現を続けていきたいと思っています。
それゆえに使う紙にもこだわっていきます。様々な表現技法を編み出していきます。そのために様々な分野の方に手をお借りすることがあると思います。その際には、知識や経験のお力をいただけましたら幸いです。

また、2021年の9、10月には映像作品「ちぎる」が日本科学未来館にてお待ちしています。
一人でも多くの人に見ていただければと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

ここまでテキストを読んでいいただきありがとうございました。